「Surfline」誌の掲載記事より
文:Jamie Brisick
写真:Kevin Roche
1969年、アル・メリックと妻のテリーは、アルの両親から200ドルを借り、レジンとクロスを買い求め、カーピンテリアの自宅のガレージでチャネルアイランズサーフボードをスタートしました。
その後のことは皆さんもご存知のとおりです。この夏、チャネルアイランズサーフボードは創立50周年を迎えました。しかし、彼らはシャンパンのボトルを開けてお祝いしたり、盛大に自社の50周年記念広告を出したりはしませんでした。
「50年の歴史を誇りに思っていないわけではありません」と、チャネルアイランズサーフボードのリードシェイパー兼デザイナーであるブリット・メリック氏は語りました。「チャネルアイランズサーフボードが歩んできた50年を、私たちは心から誇りに思っています。ただ、私たちの物語はまだ続いていくと考えています。まだこの物語を終わらせたくはないのです。」
カリフォルニア州リンコンにある有名なサーフスポットの1つ「インディケーター」が見下ろせる崖の上に、ブリット・メリックと私は立っていました。空には雲ひとつなく、きらめく青色のカーペットが、ブランド名の由来となったチャネル諸島国立公園に向かって広がっています。カモメが空高く舞い上がっていきました。
崖から見下ろしながら私は、ビーチから上ってくるチャネルアイランズサーフボードチームのライダーたちの姿を思い出していました。1980年代、私は今では伝説となっているチャネルアイランズサーフボードチームのトレーニングに参加しました。当時はサーフチームのトレーニングは前例がないものでした。特に黒のウエットスーツとシンプルなシングルフィンでのフリースタイルのサーフィンが圧倒的な人気を誇っていたサンタバーバラ地区ではなおさら異例なことでした。アルは、私たちを新たなハイパフォーマンスサーフィンの時代へと導いてくれました。彼のデザインは、この新時代のサーフィンに大きく貢献することになります。アルがデザインしたサーフボードは、チャネルアイランズサーフボードのチームライダーの20の世界タイトル獲得を後押しし、その数はまだ増え続けています。今現在も、チャネルアイランズサーフボードは、世界をリードするサーフボードブランドであり続けています。ひとつのサーフボードメーカーが、数十年間変わらずにサーフボード業界を牽引し続けるのは稀なことです。そしてさらに稀なのは、父親がシェイピングの主導権を自身の息子へと引き継いでいることです。
「父から譲り受けたこと、それは、シェイピングは自己中心的なものではなく相手に尽くすことである、という精神です。目標は常にサーファーに仕え、彼らに多くの経験をしてもらうことにあります。大きなあごひげを生やし、父のアルと同じまっすぐな姿勢を貫く、長身でがっしりとしたブリットはそう話しました。
ブリットの子供の頃の思い出はブランクスのポリウレタンフォームの粉であふれています。ブリットは、数えきれないほどたくさんの時間、世界中のトップサーファーたちのためにサーフボードを作る父の姿を見てきました。ある時リンコンで、試作品のテストセッションがあり、ショーン・トムソンやトム・カレンが6枚の新型のサーフボードを持って現れ、試乗する機会がありました。そしてその後、カーペットの上に何枚ものサーフボードが並べられたブリット家のリビングルームで、ショーンやトムがそれぞれのサーフボードの感触を語るのを、若き日のブリットは熱心に耳を傾けて聞きました。10代後半、初めてサーフボードをシェイプする頃までには、すべてがなじみのあるものになっていました。
「10代後半の頃はこんな風に感じていたのです。『プレーナーも使える。サーフォームの使い方もわかる。サンディングブロックの使い方も覚えた。ノーズのこの部分や、ここのこのテールフリップにはどのような手を加えたら良いのかもわかる』と。」とブリットは語りました。
私たちは、サーフボードが波に乗るための単なる遊び道具ではなく、もっとずっと大きな存在だという話もしました。人生の最高の時期にはいつも素晴らしく乗りやすいサーフボードの存在があるという話を私がすると、ブリットはこう話してくれました。娘が亡くなった直後、リンコンの小さな波で悲しみを癒していた時に乗ったサーフボードを生涯忘れることはない、と。
「そのボードに対しては、何か本当に深い感情があったのです。『このサーフボードは、波の高さが1フィートしかないリンコンで私にサーフィンをさせてくれている。そして不思議な形で私を助け、私の魂を癒してくれている - この先の人生もずっとこのサーフボードを愛している!』 そのサーフボードが今現在、自宅の倉庫のどこに置いてあるかもすぐに言えます。そう、私は人々にとってサーフボードが大きな意味を持つようになることがあることを知っています。だからこそ、こうしてサーフボード作りに人生を捧げることによって彼らの役に立つことが私にとってこの上ない喜びなのです。」
私はブリットにシェイピングで最も楽しんでいることは何かを尋ねてみました。
「サーフィンです。」彼は答えました。「私の父がシェイピングを始めたのはサーフィンを愛していたからです。それがサーフボードへの愛につながりました。私は心の底からサーフボードを愛していて、かなりサーフボードに取りつかれてしまっています。ロッカーのことを考えたり、フォイルが夢に出てきたり、いろいろな組み合わせを想像して、真夜中に目が覚めることがあるのです- 実は昨晩もそうだったのです。」
「すべてはロッカー次第です。」ブリットは言いました。「ロッカーは、間違いなくサーフボードの中で最も重要な部分です。」 ブリットは、父親のアルはロッカーを流体力学の観点から考えるよう手ほどきしてくれたと、私に語りました。「父は、私の目も、私の手も、私の道具も、すべてが水にならなければならないと教えました。だから、父は必ず両手を使ってシェイピングをしていました。一方の手で道具を操りながら、もう一方の手は水となってその道具が何をしているのかを感じ、道具の動きを確認していたのかもしれません。目も、心も、水になれたら、水はどんな動きをしているのでしょうね。」
生産拠点をアジアなどに移して、もっと利益を稼ぐこともできたはずですが、彼らはそうはしませんでした。チャネルアイランズサーフボードは引き続き、地元での長年のサーフボード作りで培った伝統と文化だけではなく、カーピンテリアの彼らの工場で、私たちが楽しむサーフボードをシェイプし、ラミネートし、フィンカップをセットし、サンディングする技術を持ったたくさんの従業員とその家族を守ることに力を注いでいます。材料の価格高騰とカリフォリニア州の規制強化による逆風の中で、ホームタウンのサンタバーバラでサーフボード作りを続けるのは簡単なことではありません。でも、チャネルアイランズサーフボードにとっては、これが当たり前なのです。
「私たちは経験を愛し、作品を愛し、職人の技を愛しています。そして人々に喜びをもたらすことを愛しています。」ブリットは語りました。「それは、実際にサーフボードを作り、素材を自分の手に感じて、そこに自分自身の愛を注ぎ込んできた経験です。そして、このサーフボード作りのこだわりへの愛と喜びこそが、私が18歳になる息子のイザヤに引き継いできたものです。彼は私たちの元で働き始めて数年になり、現在は工場内でエアブラシの工程や、当社のSPINE-TEK製サーフボードに手作業でスパインを取り付ける作業を手掛けています。」
サーフボードを作る会社にとって、長く生き残ることは簡単ではありません。物理的な負担が大きいのです。多くの監督機関が厳しいコンプライアンスを要求しています。ボードデザインは常に進化し、人気のモデルを生み出したとしてもすぐに時代遅れになります。チャネルアイランズサーフボードは、ロングボードと水平な動き中心のシングルフィンが主流の時代に生まれました。そして現在、チャネルアイランズサーフボードのサーフボードは、テールで波しぶきをあげ、エアーで回転する、ハイパフォーマンスショートボードの先駆者となっています。彼らはどのようにして、成功することができたのでしょうか。
「父から教えられたこと、それは決して満足しない、ということです。自分の能力を測ることができるのは、いままでで最後に作ったサーフボードだけです。父は決して、気軽に『オーケー。これで十分だよ。』とは言いませんでした。父はこんなことも言っていました。『ケリー・スレーターのサーフィンが素晴らしいのは、サーフボードの性能以上にケリーの能力が優れているからだ。』と。父は本気でそう言っていました。だからこそ父は、自分自身のエゴや恐怖心ではなく、サーフィンへの情熱によって突き動かされていたのです。」
私たちの自慢は、あなたが思い描いているサーフボードを作ることができるということです。お近くのサーフショップで自分だけのサーフボードをデザインしてカスタムオーダーしてください。(詳しくは「サーフボードのカスタムオーダー方法」をご覧ください。)私たちが作ったサーフボードの形に、好みの外観やディメンションをカスタマイズしてください。あなた専用のチャネルアイランズサーフボードが120日以内に完成します。
お求めはお近くのサーフショップへ。
チャネルアイランズサーフボード社製品のお取扱店はこちら